2024年(令和6年)放送のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公である紫式部(まひろ)。
2024年2月の放送時点では、結ばれる相手として藤原道長(柄本佑)であって欲しいと願って視聴している方も多いかと思います。
しかし残念ながら、現実は理想通りにはなりません。
なんと、まひろ(紫式部)の結婚相手は、既に何度かドラマに登場している藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結ばれることになるのです。
それを演じている俳優は佐々木蔵之介さん。
序盤から登場している様子から、かなりの年の差を感じる2人の間柄です。
当記事では、そんな紫式部(まひろ)の夫となる藤原宣孝の生涯やまひろとの関係、そして後の紫式部の作品へ与えた影響について紹介していきたいと思います。
紫式部(まひろ)の夫・藤原宣孝とは?
まず最初に紫式部の夫である藤原宣孝の人物像に迫ります。
藤原宣孝は平安時代中期(10世紀中頃)に、公卿の藤原為輔(ふじわらのためすけ)の子として生まれ、長保3年(1001年)に没しました。
宣孝が生きていた頃の貴族社会は、天皇家と深く関わりのあった藤原北家(ふじわらほっけ)によって牛耳られており、宣孝も北家の高藤系出身でした。
ちなみに、藤原北家というのは、藤原氏の四家(南家・北家・式家・京家)の一つです。藤原不比等の第二子房前(ふささき)が祖となり、良房などが出て、四家のうちで最も栄えたそうです。
しかしその藤原北家の中でも、自身の娘を天皇の后につけた藤原師輔(もろすけ:道長の祖父)の家系が特に栄えることとなりました。
そんな状況でも北家出身の貴族として生まれ育った宣孝。
宣孝の父、為輔もそうでしたが、宣孝も数々の要職を歴任することになりました。
正暦元年(990年)に宣孝は御嶽精進(みたけそうじ:奈良県の金峯山に登り参詣する者が、登拝に先立って行う精進のこと)を行い、同年に筑前守に任命されています。
長徳4年(998年)には、石清水(いわしみず)臨時祭と賀茂(かも)臨時祭の舞人を奉仕しており、同年に山城守を兼任しました。
この石清水臨時祭と賀茂臨時祭は、南祭・北祭と呼ばれる伝統行事で、明治3年(1870年)に廃止されるまで開催されていたそうです。
さらに長徳4年(998年)11月末には、豊前国(現在の福岡県東部と大分県全域)に位置する宇佐神宮の奉幣使(ほうへいし)にも任命されました。
この奉幣使というのは神に供物を捧げるため、神社に参向する使者の事を指します。翌年宣孝が帰京して間もなく相撲節会(天皇や上級貴族たちによる相撲大会の儀式)にも武官として列席しています。
数々の職務を任せられていた宣孝は、世知に長けた教養のある人物だったのがうかがい知れますね。
そして正暦元年(990年)には筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任。
次に正暦3年(992年)年頃には大宰少弐も兼務するように。
その後、右衛門権佐として京に戻り、長徳4年(998年)には山城守となり、この頃に紫式部と結婚したと伝えられています。
宣孝ですが、まひろ(紫式部)の父である藤原為時(ふじわらのためとき)とは職場の同僚であり、また同年配の友人同士という仲でしたが、世知に長け、鷹揚(おうよう)な性格の持ち主でした。
そして幼少期からまひろの事をよく知っており、よき話し相手となって温かくまひろを見守ってきました。
よく言えば包容力のある大人の男、悪く言えば気のいいただのオヤジといったところでしょうか(笑)
藤原宣孝は次のような家族構成でした。
父:藤原為輔
母:藤原守義の娘
兄弟:惟孝、説孝、宣孝、藤原佐理室
妻①:藤原顕猷(のりゆき)の娘
妻②:平季明(すえあき)の娘
妻③:藤原朝成(ともなり)の娘
妻④:紫式部(藤原為時の娘)
子①:隆光
子②:頼宣
子③:隆佐
子④:明懐
子⑤:儀明
子⑥:大弐三位(紫式部の子供)
子⑦:藤原道雅室
紫式部(まひろ)との結婚
続いて紫式部(まひろ)との結婚の経緯や、結婚後の様子についてご紹介します。
藤原宣孝は長徳4年(998年)頃、まひろ(紫式部)と結婚したと伝えられています。
結婚当時の紫式部は29歳頃(この時代としてはかなりの晩婚の扱い)、藤原宣孝は40代半ば~50代になろうかという年齢でした。
当時としては二十歳くらい、親子ほどの年齢差がありました。
まひろ役の吉高由里子さんが35歳、宣孝役の佐々木蔵之介さんが55歳(まもなく56歳)なので、これはこれで近しい年齢差となっています。
宣孝は紫式部との結婚までかなり情熱的に求婚したそうで、「紫式部集」に宣孝のやり取りの様子が描かれています。
当時は京都にある紫式部の自宅(廬山寺のあった場所)に、猛烈な求婚のための手紙攻撃をかけてきたそうです。
そして時には本人自ら自宅にやってくることもあったとか…
そんなこんなで紫式部(まひろ)は嫌気が差したのか、父・藤原為時が越前守に就任するに際し、当時20代後半だったまひろ(紫式部)が「私も一緒に着いて行く」と言ったエピソードまで残っています。
しかし宣孝もそんなことではめげず、その後も手紙攻勢が越前にまで及んだのだとか。
あまりの熱烈な恋文に、紫式部が「いくら言ってきてくださっても、あなた様への私の心はこの越前の高い嶺の雪の様に、溶けることはありませんのよ」という内容の歌を返しても、宣孝は一向にひるみません。
そんなことが長く続くと、やがて彼女の心には微妙な変化が生じてきました。
ヘタすれば寂しさを感じるほどに…
そして、まひろ(紫式部)は父の任期途中なのにも関わらず単身京都に戻り、宣孝と結婚してしまうのです。
宣孝は長保3(1001)年4月25日、当時の流行り病のためこの世を去りました。
まひろと結婚して、わずか2年半で亡くなってしまったのです。
夫婦となった二人の間には、賢子(かたいこ)という女児が誕生しました。
賢子は、大弐三位(だいにのさんみ)とも呼ばれ、女流歌人として文化面で活躍した人物に成長しました。
その彼女が詠んだ和歌は、後に小倉百人一首にまとめられることとなりました。
その名の通り、優れた才能を持った賢い子どもに恵まれ、妻・紫式部とも円満な関係を築いていたとされる宣孝でした。
藤原宣孝と紫式部(まひろ)の夫婦関係
「光る君へ」の中において、宣孝はまひろの父・藤原為時とは職場の同僚で同年配の友人どうしで親戚として描かれますが、実際、宣孝と為時は同僚で親しい間柄であり親戚でした。
紫式部(まひろ)の父・為時と、宣孝の父・為輔は従兄弟であったため、紫式部と宣孝は「はとこ(またいとこ)」の関係だったのです。
結婚後、しばらく経つと愛情も冷めてきたのか、藤原宣孝の態度に変化が見られるようになりました。
当時は「通い婚」という結婚形態で、夫が妻の元に通っていたのですが、宣孝は紫式部の元へあまり通わなくなってしまったのです。
それを示す和歌が自身の歌集「紫式部集」に集録されていたので、その一部を紹介します。
しののめの 空霧わたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり
紫式部集
(夜明けの空に霧が立ち込め早くも秋の景色になってきました。あなたは早くも私に飽きてしまったのですね)
これは宣孝が紫式部の元に通わなくなった言い訳に対しての返歌で、紫式部の悔しい気持ちがよく表されています。
穏やかな日々を過ごしていたとされますが、長保3年(1001)、当時流行していた疫病に罹り、生涯に幕を閉じることとなります。
宣孝の死後、紫式部は「見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦」という歌を詠みました。
この歌は、宣孝に捧げるために詠まれたとされ、紫式部集にも収められています。
「親しかった方が煙となって消えてしまった夕方、陸奥国の塩釜の浦でたなびく塩焼きの煙でさえも慕わしく感じられる」という意味を持つこの和歌からは、紫式部と宣孝の関係性を垣間見ることができます。
紫式部集の中には、紫式部が宣孝の通う女性たちに嫉妬するような描写もたびたび見られ、宣孝は幾人もの女性と関係を持っていたことは間違いないでしょう。
なお、宣孝は紫式部とは別の妻と暮らしており、紫式部は正妻ではなかったようです。
藤原宣孝には、紫式部以外にも妻と子がいました。
紫式部と結婚する以前に、妻が3人・子が5人、他にも生母不明の子もいたと言われています。
ドラマ「光る君へ」が始まった当初、「一家を案じている親戚のおじさんとその一家の娘」という印象の宣孝とまひろの関係でしたが、為時が越前守になったあたりで、2人の関係に変化が生じるようです。
廷臣として数々の要職を歴任し、妻・紫式部とも良好な関係にあったとされる藤原宣孝。
2024年大河ドラマ「光る君へ」では、2人の間にどのようなエピソードが起きるのでしょう?
今から展開が楽しみですよね。
藤原宣孝が紫式部(まひろ)へ与えた影響
藤原宣孝の死後、紫式部は代表作『源氏物語』の執筆に取りかかります。
彼女の執筆活動には、宣孝と過ごした日々のことも色濃く影響していたのかもしれません。
宣孝は、長保3(1001)年に猛威を振るった疫病で命を落としますが、紫式部とはわずか3年ほどの結婚生活でした。
幼い娘を抱き悲嘆にくれていた紫式部は、やがてその悲しみを癒すために『源氏物語』の執筆を始めます。
もしかしたら、若かりし頃、家に引きこもりがちだったといわれる紫式部(まひろ)に、宮中の恋愛模様を色々と話し聞かせたのは、夫の宣孝だったかもしれません。
複数の妻を持つ夫との短い結婚生活、そして死別という運命が紫式部を襲わなければ、世界最古の長編小説といわれる『源氏物語』は存在しなかったかもしれませんね。
紫式部集には「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」と、夫・藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌が収められています。
その紫式部集には、夫・藤原宣孝との恋愛や死別、また宮仕え時代など、ほぼ全生涯にわたる和歌が厳選して収められているそうです。
結婚生活が3年ほどだった紫式部は、夫の死後「源氏物語」を書き始め、娘の藤原賢子(大弐三位) を育てました。
夫の突然の死で一人になってしまった紫式部。
しかも紫式部には1~2歳の小さな娘(賢子)もいます。不安は相当なものだったでしょう。
そんな紫式部は悲しさや不安を紛らわすために、あることに没頭し始めました。それは物語の執筆。
この時に書き始めた作品が「源氏物語」だと言われています。
つまり、源氏物語とは藤原宣孝が亡くなったことを契機に書き始められた作品なのです。
最初は知人に読んでもらう程度だった源氏物語でしたが、それが徐々に話題となり、紫式部の存在は宮中にまで知れ渡っていきます。
そして、紫式部の人生に大きな転機が訪れ、思わぬ事態が彼女に降りかかるのです。
まひろの夫役(藤原宣孝役)の佐々木蔵之介さんについて
紫式部の夫「藤原宣孝」(ふじわらののぶたか)を演じるのは、幅広い役柄をこなせる人気俳優の「佐々木蔵之介」(ささきくらのすけ)さんです。
佐々木蔵之介さんは1990年(平成2年)、劇団「惑星ピスタチオ」の旗揚げに参加。
同劇団の看板俳優として活躍します。
また、劇団退団後、2000年(平成12年)に連続テレビ小説「オードリー」で注目されました。
その後はジャンルを問わず、様々な作品に参加します。
舞台「リチャード3世」、「守銭奴-ザ・マネー・クレイジー」、映画「アフタースクール」、「超高速!参勤交代」シリーズ、「嘘八百」シリーズ、ドラマ「ギラギラ」、「ハンチョウ」シリーズ、「知らなくていいコト」などに出演しています。
佐々木蔵之介さんは、1968年(昭和43年)2月4日、京都府京都市にて誕生。
実家は1893年(明治26年)創業の歴史ある酒蔵「佐々木酒造」で、男3人兄弟の次男として育ちます。
生まれ故郷の酒蔵の様子は、以前テレビでも紹介されていたので、ご存知の方もいるのではないでしょうか?
佐々木蔵之介さんは実家の酒蔵を継ぐため、「東京農業大学」(東京都世田谷区)を経て「神戸大学」(兵庫県神戸市灘区)農学部に進学します。
進学後父親から「商売のときに人前で話すことが苦手ではいけない」と言われ、演劇サークルに入ることを決意しました。
そして佐々木蔵之介という芸名は、赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町周辺)の筆頭家老「大石内蔵助」(おおいしくらのすけ)と、実家の家業にまつわる「酒蔵」を掛けて父親が提案したそうです。
実際の本名は「佐々木秀明」(ささきひであき)さんとのことです。
1990年(平成2年)、佐々木蔵之介さんは先輩に声をかけられたのをきっかけに劇団「惑星ピスタチオ」の旗揚げに参加しまます。
そして1992年(平成4年)に神戸大学を卒業後、広告代理店に入社して仕事を続けつつ劇団活動を続けていました。
そんな佐々木蔵之介さんに転機が訪れたのは、東京の劇団からの客演依頼です。
そこで2年半勤めた広告代理店を退社し、本格的に芝居の道へ進むことを決意します。
その後、退団する1998年(平成10年)まで劇団「惑星ピスタチオ」の看板役者として活躍。
1999年(平成11年)には、ドラマ「天国に一番近い男」(TBS系)でテレビ初出演を果たし、翌2000年(平成12年)には連続テレビ小説「オードリー」(NHK)でブレイク、その名を世間に轟かせました。
2000年(平成12年)・NHK連続テレビ小説「オードリー」
佐々木蔵之介さんが一躍俳優として注目を集めるきっかけとなったのが、2000年(平成12年)に放送されたNHK連続テレビ小説「オードリー」でした。
このドラマは、映画「陽炎」で女優デビューした「岡本綾」(おかもとあや)さん演じる主人公「佐々木美月」(ささきみづき)が、両親の反対を押し切ってまで映画の世界に身を投じ、挫折を繰り返しながら成長していく姿を描いた作品です。
佐々木蔵之介さんは、大京映画の新鋭スター俳優「幹幸太郎」(みきこうたろう)を演じました。
ほぼ舞台経験しかない佐々木蔵之介さんにとって、テレビドラマの撮影は未知の世界。
新人なのに大スターの役を演じることに戸惑いを感じていたそうです。
しかし、佐々木蔵之介さんは新人ながら大京映画の新鋭スター俳優を見事に演じ切り、一躍その名をお茶の間に広めました。
そんな「オードリー」の脚本を手掛けたのは、実は「光る君へ」で脚本を担当している「大石静」(おおいししずか)さん。
佐々木蔵之介さんとは、その後も数々のテレビドラマで関わっていくのです。